主婦のおしゃべり広場 第12回「遠距離介護」

上田 美紀

「お母さんの様子が変ですよ」と母の異変に最初に気付き妹に 連絡をしてくれたのは、一人暮らしの母を長年知る地元の銀行の 行員さんでした。この行員さんは、短期間に何度も銀行のカードを 紛失し、再発行を申請する母を見てこれまでと様子が違うと思った そうです。母の急な異変を指摘されると、思い当たる節はいくつも ありました。しかし、その当時母はまだ60代で、母が既に認知症を 患っているとは、私たち姉妹は露ほども思わなかったのです。

2年前のその日から、母の介護という新しい側面が私たち家族の 生活に加わりました。最初は、私も妹もそれほど事態を深刻には 捉えておらず、どちらかが同居すれば母は落ち着くと信じていました。 シングルマザーの妹は、幼い娘の世話をして貰えることもあり、 母との同居を希望し、母は熊本の実家から二人の暮らす福岡に 生活拠点を移しました。

同居開始後、私たちは母の病状が思っている以上に進行して いることを理解しはじめました。母は62歳ごろに軽い脳梗塞を 患いましたが、その影響とアルツハイマーが混合した認知症を 発症したと考えられました。認知症の症状の中でも、特に 物取られ妄想が酷く、母は、夜眠ることを恐れるようになり ました。眠っている間に外部から人が侵入し、お金や貴重品を 盗んでいると言い張りました。ありえない話ですが、母は あらゆる理由をつけて自分の理論を正当化しました。 物を取られないように、あちらこちらに貴重品を隠すのですが、 その置き場所を忘れるため大騒ぎとなり、警察を呼んだことも 一度や二度ではありません。デパートで正社員として働く妹が、 深夜帰ってくるのを待ち構えるように議論となり、夜中まで 言い争う日々が続き、母も妹も消耗していきました。

この状況が四か月ほど続いたころ、母は引っ越し業者を呼び、 さっさと熊本の実家に帰ってしまいました。この時期、母の 症状は悪化する一方一人暮らしは危険でさえありました。 私は仕事を休み二度日本へ帰国しました。二度目は、 母と母の愛犬をカンボジアへ連れてくるために。

ずっと仕事をしていた母は社交好きで、53歳で車の免許を 取得するような頑張り屋でした。カンボジアにも三回、 一人で遊びに来たほどでしたので、私は、母を連れてきても 大丈夫だと思っていました。カンボジアの方が人手があり、 私が時間をやり繰りすれば、母の介護ができると考えました。 しかし、私の考えは甘かったのです。母の物取られ妄想は 想像以上で、母は、犯人として私やクメール人の夫を疑いました。 私は夜中に起こされ、激しい言い争いを毎晩繰り返し、母は 日本に帰ると主張しました。日本語と状況の良く理解できない 夫は「君子危うきに近寄らず」という感じで、極力、母を 避けるようになり、家に帰る時間が遅くなりました。 このままでは、家庭崩壊と共倒れという危機感が高まって きた頃、あれほど可愛がっていた犬を置いて、母は日本に 帰って行きました。

母が去った時、母はもう私の知っている母では なくなりかけていることを知りました。同時に母も、 自分の変化を受け容れられないようでした。本来ならば、 認知症患者の生活環境をこれほど変えるのは好ましい事では ないのでしょうが、私は最初から何も理解していなかった のです。母と口論ばかりを繰り返し、彼女の間違いを正そう としましたが、私が母の全てを受け入れなければならない時が 来たのでした。

日本に帰った母に一人暮らしはもう無理でした。多忙な 妹一人で、母と小学一年生の娘の面倒をみることができない ため、私が暫く日本へ戻り支援体制を整えることにしました。 今年7月から介護保険の申請手続きをするため日本に滞在 しましたが、住民票の移転、介護保険の申請など、煩雑な 事務手続きに追われました。手続きに二か月ほど費やした ころ、母は要介護2の認定を受けました。

その後はケアマネージャーを中心に母の介護プランを立て、 日々の生活支援、訪問看護、ディサービスと、大きく分けて 三つのグループが一つのチームとなり母の生活を支えています。 プロのサービスは素晴らしく、小さな問題にも真剣に取り組む 姿勢に感謝の気持ちでいっぱいです。私は、現在ケアマネージャーと メールで連絡を取り、母の介護について調整を行っています。

日本の介護制度は、在宅を基本にしています。介護をされる側も 施設や他人の手ではなく、家族に見守られながらずっと家で生活 することを希望している方が多いでしょう。しかし、介護の責任を 担うことが多い女性は、家族を支えるため仕事と育児を両立させようと 必死に暮らしています。また、仕事を探して地方から都会や海外に 出た子どもにとって、親の介護のために田舎へ帰る選択は難しい ものです。私に今出来ることは、遠距離から専門家の助けを借り、 介護の調整をすることです。しかし、こうしている間にも母の症状は 悪化するばかり。残された時間で何をするべきか自問する毎日です。