地雷の後に咲いた花 Vol. 1

山本 賢藏

「空が、まだ高いな。とうぶん雨は来ないね…」
 と、スレイ・モムが言った。それから、ため息をついて、バナナの茎を包丁で切り続けた。去年の7月だ。モムは身寄りのない少女だった。14歳のとき、一つ違いの弟と共に、トーンとソピアプ夫妻に引き取られた。今年、21歳になる。
 モムの天気予報は、よく当たる。(と、言われている。)実際、去年この地雷原の村には、なかなか本格的な雨季が来なかった。それで、コットンの種まきが随分と遅れた。収穫が危ぶまれた…。
 私たちの団体は、バッタンバン州ラタナクモンドル郡で、地雷除去後の土地にオーガニックの綿を栽培し、その綿を使い、手紡ぎ手ばた織りの製品を作っている。担い手は、地雷被害者や高齢女性が中心だ。モムの育ての親、トーンとソピアプ夫妻も、この新たな挑戦に乗り出した我々の仲間だった。
 夫トーンは、政府軍兵士だった。90年代半ばに地雷を踏み左足を失った。妻ソピアプは11歳の時(90年代はじめ)、タイ国境に逃れようとして地雷を踏み、右足を失った。
 二人は、リハビリセンターで知り合った。地雷被害者同士では無理だという周囲の反対を押し切って、結婚した。二人の子どもができた。が、プノンペンではどうにも食べて行けなかった。新天地を求めて、今から十年ほど前に、地雷原に移り住んだ。(この地に住む多くは、和平後に、他に行き場がなくて辿り着いた貧しい人たちだ)二人は、自ら地雷を取り除き、畑を開墾した。モムたちを引き取ったのも、その頃だ。
 ある日、トラクターで小屋のすぐ裏を通った瞬間、地下2メートルに埋められた二段重ねの対戦車地雷が爆発した。トラクターは吹っ飛び、モムの弟は体を二つに千切られ、即死した。夫妻にとって、自分たちが足を失ったよりも衝撃だった。二人はノイローゼ状態に陥った。土を踏むのが恐ろしくなったと言う。少年の死は、今でも時折、二人の顔に影となって現れる…。
 その半年後、二人はたまたま私たちと出会い、活動に参加することになる。2008年のことだ。二人は、まるでかつての日本人のように『猛烈』に働いた。「地雷被害者でも自分の力で成功できるのを、他の仲間に見せたい」それが、二人の口癖だ。
 ところが去年… そう、ようやく種まきが終わった頃。土地の所有権をめぐる争いで、夫妻はこれまで住んでいた土地を立ち退かねばならなくなってしまった。結局二人は、バッタンバン州を去った。
 この地域は地雷さえなければ、決して土地は悪くない。この5年間見ているだけでも、大規模なゴム園や果樹園などがどんどん増えている。これから更に地雷除去が進むにつれ、大きな資本による投資も入って来るに違いない。それは、この国の経済全体のためには、きっと、いい事なのだろう。訪れる大きな変化の中で起こった今回のような問題も、社会基盤の整備が行き届いていないこの国では、ある程度仕方のないことなのかもしれない。
 ただ、私たちは、変化の波の中でますますチャンスから遠ざけられていく人たちに寄り添って、小さな歩みでも、活動を続けていきたい。

 …今年のはじめ。摘みたての綿花を手に、モムが畑に立って、呟いた。
「ここんとこずっと空が高いから、とってもほわほわの綿が採れたよ!」
そして、きらきら霞む空を見上げた。夫妻が去ってから、モムは独りこの地に残り、他の仲間たちと畑を守っている。
 様々な人生が寄り集まって、地雷のあとに咲いたのは、ほわほわの綿でした。