今に残る35年前の傷跡

不破 章
 カンボジア特別法廷は、2011年11月21日、ポルポト政権元最高幹部3人(ヌオン・チア元議長、イエン・サリ元副首相兼外相、キュー・サムファン元国家幹部会議長)の審理を開始しました。今回の審理は、昨年7月、元トゥールスレン収容所所長カン・ケ・イウに禁固40年の刑を言い渡した審理に引き続いて、行われるものです。
 この一連の犯罪は35年前のできごとですが、その傷跡は深く、今も、カンボジアの国民はその苦しみを引きずっているような気がいたします。検察側の冒頭陳述では、ポル・ポト政権時代の3年8ヶ月余りを「現代史上、類を見ない凶悪犯罪が行われた期間」として糾弾しています。
 カンボジアに住んでいると、日本にいるときは実感できなかった35年前のこの傷跡に、不意に触れることがあります。そのとき、私は胸を押しつぶされるような、ときには吐き気をもよおすような気持ちになることがあります。
 今回、折にふれ書き綴ったものの中から、35年前の傷跡に関する2つの話題をお届けします。

第一話 ひとりの女性との出会いと再会 (2011年9月10日作成)

 カンボジアでの生活も早や1年になります。
いろいろな出来事がありましたが、今日は一人のカンボジア人女性との出会いとその女性との再会についてお話しします。
 カンボジアで生活を始めて2度目の日曜日(2010年10月10日)、トゥールスレン高校に行ってきました。国立の虐殺博物館です。宿泊していたホテルから歩いて10分ほどの所にあります。その日は日差しが強くカラッとしたカンボジア特有の気候でしたが、建物の中は薄暗く湿っぽい感じがしました。クメール・ルージュによって大量殺りくが行われた部屋や各教室に掲示された犠牲者の写真を見てまわりました。
 そして、悲惨な写真ばかりでほとほと嫌気がさしてきた頃、彼女に会ったのです。名前も知らない彼女は他の犠牲者とは異なり、尋常ではない鋭い目で何かを訴えるように私に迫ってきました。彼女は何者だろう。彼女の目は何を訴えているのだろうか。彼女の最初の印象は、昔、日本で見た映画「The Killing Fields」に登場するクメール・ルージュの少年少女兵の狂気のようでもありましたが、何か違う。この日は彼女の写真を撮って、彼女のことをもっと知りたいと思いながらもトゥールスレンを後にしました。

 年が変わり3月の半ば。
 私の趣味とも言える書店巡りで、再び彼女に出会ったのです。服装は変わりませんが、今度は、彼女らしく赤く装丁されたきれいな本の表紙になっていました。その本の中では、悲惨な戦争の影で、「カンボジアの悲劇」といわれる愛の物語が展開されていたのです。彼女の名前はHoutBophanaです。
 彼女は、私と同世代でした。カンボジア北西部、East Barayの教師の家に生まれ、小さい頃からフランス語を勉強していました。16歳になった頃、彼女は遠縁にあたるLy Sithaと結婚し,幸せの絶頂にいました。しかし、1970年3月、ロン・ノルがクーデターを決行して政権を握った頃から、彼女の人生は国の混乱に歩調を合わせるかのように大きく変わっていきます。
 ロン・ノル政権と反政府勢力クメール・ルージュとの戦いが激化し,彼女の町もまた戦場と化したため、首都プノンペンに逃れてきます。その混乱の中で家族はバラバラになり、彼女は2人の妹とともにプノンペンの街の片隅でひっそりと生きていくことになります。
 彼女の生活圏はセントラルマーケット、リバーフロントあたりの街の中心部だったようです。聡明で、何事にも全力で生きていく彼女は、英語の読み書きを習得しアメリカの慈善団体で働いていました。そして、ワットランカ(独立記念塔近くの寺院)で夫との再会も果たします。夫は僧侶になっていました。
 1975年。ロン・ノル政権がたおれ、ポルポト政権が発足するとそれまでの生活環境はさらに悪くなります。彼女は他のカンボジア人同様、地方へ強制疎開させられます。その頃、夫は生きのびるため過去を隠して、クメール・ルージュの一員となっていました。 苦しい生活の中で、お互いを忘れることはなかったのでしょう。プノンペンに住む夫と疎開先で体も衰弱していた彼女との間では頻繁に手紙が交わされます。彼女の手紙からは苛酷な環境の中で何とか生き抜いて行こうという必死な思いと夫への愛情がひしひしと伝わってきます。彼女は自分のことを古代インドの大長編叙事詩ラーマーヤナに登場するラーマ王の妃シータになぞらえ、手紙の中でSitaとなのっています。ラーマーヤナで展開される物語のように、悪人に連れさられたSitaはいつか、必ず、愛する夫が救い出してくれるという強い望みを持ち続けていたのでしょう。
 彼女が夫に送った手紙の一部です。原文はクメール語です。

"If Sita dies, please do not forget to dress me in my evening gown so I can succeed in avenging in hell. When I am dead and I am a ghost my desire for revenge will burn in Sita's chest and Sita will win total revenge...."

 Sitaが死んだら、必ず、私にイブニングガウンを着せてね。私は、地獄に行っても復讐するんだから。私が死んで幽霊になっても、復讐の気持ちはSitaの胸の中で燃え続ける。きっと、復讐するわ。


"I started working again but I have no energy. I am exhausted. The medicine makes my heart beat faster and my chest burns. Perhaps my insides are bad.
My dearling, could you send some drugs for your wife such as tetracycline and one kilo of suggar or wait for the day that the work no longer needs me...."

 また働き始めました。でも、もう生きる気力もないわ。疲れてしまったの。お薬を飲めば動悸が激しくなり、胸の中が燃えるようだわ。たぶん、私の体は相当悪いと思うの。テトラサイクリン(抗生物質)のようなお薬とお砂糖を送ってくれないかしら。私が働かなくてもいい日がくるまで待っててね。

 しかし、遠く離れた夫婦の手紙のやりとりも終わりを迎えます。夫からもらった手紙と差し入れがよほどうれしかったのでしょう。日ごろの緊張がついほぐれたのか、このとき、お礼の手紙の冒頭に英語を使ってしまいます。そして、この手紙がクメール・ルージュの手に渡ったのです。英語ができることを偽っていたこと、さらにCIAのスパイの嫌疑も受けて逮捕されてしまいます。書き出しの夫へのお礼が英語で、この後ろにクメール語で文章は続きます。


"Dear darling! I have just received your letter and some things that you sent me this afternoon with great pleasure. Dearie! You don't worry about me. Nowadays I am well but I miss you very much...."

 今日の午後、あなたから手紙と荷物をいただいて、すごくうれしかったわ。私のことは心配しないでね。最近、調子がいいのよ。だけど、あなたがいないとすごく寂しい。

 2人は逮捕され、夫はすぐに処刑されます。
 1976年、夫の死も知らないBophanaは自分の夢、自分の尊厳を踏みにじった者に対して強い憎しみを抱きながらも、しかし、夫への純粋な愛を貫きとおし、その短い生涯を終えます。享年22歳。私が遠い日本で社会人としてスタートを切った頃です。
 この本を読み終えたとき、強い日差しを受けているプノンペンの街並みをアパートのバルコニーから見下ろし、フッとため息がもれました。あれがセントラルマーケットで、向こうがリバーフロント…、
 もう大丈夫だよ。良く頑張ったね。Bophanaはちっとも悪くない。生まれた場所と時期が悪かったんだ。Bophanaはその短い生涯で私たちに大事なメッセージを残してくれた。Bophanaの死は決して無駄ではなかったんだよ。Bophanaは不幸な形で命をなくしたけれど、その魂は、カンボジアの大地に永遠に咲き続ける花になったんだね。ロータスのように。永遠に。

 Bophanaの死後20年以上たった今、Bophanaの悲劇はいくつかのメディアで取り上げられています。
 1996年、Bophana と夫の愛の物語は "Bophana : A Cambodian Tragedy"としてテレビドキュメンタリー番組(60分)になりました。
 2006年、カンボジアの歴史映像を収集し、公開するためにフランスの支援でAudiovisual Resource Center (URL www.bophana.org/)がプノンペンに開設されました。そのセンターは彼女の名にちなんで、"Bophana" と名づけられています。そして、そのセンターは私が住んでいるアパートのななめ向かいにあったのです。いつも読書をしているバルコニーから手を伸ばせば、まるで手が届きそうなところにあったのです。

 2010年末、Elizabeth Becker(元ニューヨーク・タイムズ記者)により本書が刊行されます。重苦しい時代を懸命に生き抜こうとした女性の姿をとおして、ロン・ノル政権、ポルポト政権下での民衆の苦しい生活を伺い知ることができます。特にカンボジアの近現代史に関心のある方は是非、お読みください。   
 Audiovisual Resource Centerの書籍コーナーには本書の英語版とクメール語版も展示してあります。

 Bophanaとのトゥールスレン高校での初めての出会いと半年後の再会の話は以上です。半年の時を経て、やっとBophanaと心をかよい合わせることができたように感じます。 
 Bophanaの目に光るものが見えたから。

 第二話 消えたスーパースター

(2011年11月6日作成)

 食事の後、まだ昼間の暑気の漂うプノンペンの街並みをバルコニーからボンヤリ眺めていた。乾季に入り、夕方の激しい雨もめっきり少なくなった。まだ明るいというのにもうネオンサインの明かりがいくつかともっている。どこからともなく大音量の音楽が流れてきた。あの歌だ。偶然だろうが、最近、よく耳にする。
 しかし、この歌はカラオケではなく、あの男に歌って欲しいとつくづく思う。

 あれは、日本では梅雨真っ盛りの6月半ばのことだった。カンボジアも雨季なのだが、ここプノンペンは今年は雨が少ない。通りを歩いていたら、飲食街のどこからか、きれいなメロディの音楽が流れてきた。ちょっと古そうな歌ではあった。カンボジアではときどき日本の古い歌が登場する。この曲も昭和30~40年代の演歌のようなムードを持っている。高い音程から水が流れ落ちるようななめらかなメロディが繰り返される。しばらく聞いているうちに頭からメロディが離れなくなった。さらに、歌っている歌手の声が澄んでいた。淡々としていながら叙情漂うメロディと、モノトーンの澄んだ歌声がこの曲によくマッチしていた。
 歌の名前は何なのか? 
 歌っているのは誰なのか? 
 どのような歌詞なのか? 
 なんとか、CDを手に入れたいと思った。これが、この曲との最初の出会いだ。
 アパートに戻り、覚えたメロディラインをパソコンに打ち込み、楽譜を作成した。そして、このスコアを頼りにCDショップをまわり始めたのが6月末だ。
 オープニングの6小節(送りの3小節、そして受ける3小節)が、この曲のメインメロディだ。この6小節は変調しながら繰り返し現れる。


 カンボジアの人は歌が好きだ。当初、CDショップで楽譜を見せれば曲名などすぐにわかるだろうと思っていた。が、それは無理だった。楽譜が読める店員はなかなかいなかった。仕方がないので、自分で歌って曲の感じを伝えることにした。
 5~6件目のCDショップだったと思う。年配の、とはいえまだ30過ぎのおとなしそうな店員だった。いつものように私がハミングでメロディーをなぞり始めると、しばらくして、彼も一緒に歌いだした。きれいなテノールで歌う。それも歌詞を覚えている。後で聞いたらご両親がよく歌っていたという。「バットンボーン」というカンボジア西部の地名が何度か出てくる。後ろでは女性店員も小さな声で歌っている。狭くて薄暗い店内は、急ごしらえの音楽会の舞台になった。音楽は世界共通の言葉だとは言われているが、実感するのは初めてだ。この歌が二人のカンボジア人と一人の日本人の心を深く結び付けているように感じられた。
 この歌について店員に聞いた。曲名は「チャムパーバットンボーン」でSin Sisamuth(シンシサモ)が歌っていたという。そして、この曲の内容、歌手にまつわる話も聞くことができた。

 Sin Sisamuthは、1970年代のカンボジアを代表する歌手で、1930年代の半ば、カンボジア北部の町ストゥントレンで生まれた。彼はカンボジア民謡からロック、ブルース、ジャズまで様々なジャンルの曲をカバーしている。当時、彼はカンボジアではトップスターの地位にいた。しかし、その人気を利用するのが政治家だ。ロン・ノル政権とクメール・ルージュとの内戦のさなか、彼は国民を鼓舞する替え歌を歌わされ、ロン・ノル政権の広告塔として利用された。

 1975年、ロン・ノル政権が倒れ、ポル・ポト政権がカンボジアを支配下におくと彼の運命は奈落の底に堕ちた。あまりにも有名になり過ぎた彼には、隠れるところも逃げる場所もなかった。彼はクメール・ルージュに捕らえられ、その後、行方はわかっていない。恐らく、捕らえられて、早い時期に殺害されたものと思われる。殺害の状況を記した資料は存在しないが、唯一、仄聞として次のような短い話が残っている。一世を風靡した彼の最後は無残なものだった。彼にとっては、想像だにしない結末だったと思う。

"One apocryphal story is that before he was to be executed, Sisamouth asked that he be allowed to sing a song for the cadre; but the cold-hearted soldiers were unmoved and after he finished singing, killed him anyhow."

 不確かな情報ではあるが、Sisamouthは、処刑される前、兵士のために歌うので殺さないでくれと懇願した。しかし、願いは聞き入れられず、歌い終わったとき、Sisamouthは処刑された。

 さて、この歌の内容だが、チャムパーとは、モクレンのような甘い香りの花を咲かせる木の名前だ。日本語の訳詩も見つけ出すことができた。日本語では、「バットンボーンのチャムパー」を「バッタンバンの花」と訳している。嫁ぐ女性への男の切ない恋しい想いを歌ったものだ。私は、若い頃親しんだ光太郎の詩を思い出した。自分のもとを去っていく女性に対する惜別、未練、、今でもYouTubeで「未練」を検索すると1000曲近い歌がヒットする。時代、国を問わず、私たちとは切り離せない感情なのだろう。

「バッタンバンの花」と高村光太郎の詩「人に」を比べると訳詩と詩人の言葉の使い方に違いはあるものの、人の感情に共通するところは多い。

<人に>      高村 光太郎
 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――

 花よりさきに実のなるやうな
 種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
 夏から春のすぐ来るやうな
 そんな理窟に合はない不自然を
 どうかしないでゐて下さい
 型のやうな旦那さまと
 まるい字をかくそのあなたと
 かう考へてさへなぜか私は泣かれます
 小鳥のやうに臆病で
 大風のやうにわがままな
 あなたがお嫁にゆくなんて

 いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 ....


<バッタンバンの花>
1.オー!バッタンバン 最愛の人よ
 既に別れてしまったが とても恋しい
 それ以来 遠くに離れてしまった
 いつも後悔しており とてもつらい
2.オー!バッタンバン 運命の輪よ
 希望は絶え間なく 湧き上がる
 もしもあなたが 
 前世に私の妻だったならば
 どうか私を 思い出しておくれ
( Repeat )
愛する人よ 昔をおぼえているかい
 あなたは 私の命そのもの
 私のこころは いつも望んでいる
 あなたが 運命の妻であることを 
3.オー!バッタンバン 思い続けている
 いつ あなたとお会いできるの
毎日こころはさわぎ 耐え忍んでいる
 ぜひ手に入れたいバッタンバンの花を

 支払いを済ませ、店を出ようとしたとき、その店員はもう一人のスーパースターの話を始めた。今度のスーパースターは女性だった。
 名前はRosSereysothea(ロ・セレイソティア)。
 Sisamuthと同時代に活動した女性歌手で、当時のシハヌーク国王から「PreahRheichTeanySomlangMeas(王都の黄金の歌声)」の栄誉を授けられている。このクメールの歌姫のハイトーンの鈴の音のような澄み切った歌声は、同時代にアメリカで活動していたMinnie Riperton(ミニー・リパートン)に匹敵するものであった。彼女は、5オクターブという広い声域を持つといわれていた歌手だが、1979年、31歳の若さで乳ガンにより死去した。
 Sereysotheaの音楽はクメール音楽をベースに、ロック、日本の昭和歌謡曲や中国歌謡曲が渾然一体となっており、今の時代に聞いても非常に斬新な魅力があり、刺激的だ。 
 Sisamuthとのデュエットのレコーディングもたくさん残っている。この時代、彼女のあふれる才能がカンボジア国内を駆け巡っていたように思わせる活躍ぶりだ。
 しかし、ポル・ポトが政権を奪取すると、彼女もSisamuth同様、不運な道を歩むことになる。コンポンスプーの労働現場に住まわされ、強制労働の末、亡くなったといわれている。詳しいことは何もわかっていない。
 中国の強力な支援を受けていたポル・ポト政権はカンボジアで多くの人の命を奪った。この2人のスーパースターも含めて。
 別れ際に、この店員は花についてのカンボジアの言い伝えを教えてくれた。

 「花はいつでも咲いている」

 表向きには、熱帯気候のカンボジアでは季節を問わず、いつでも花が咲いているということだが、この言葉には裏の意味があるという。それは、体制が変わっても政権の座に依然として執着している者のこと、あるいは表に立つ者の顔は変わっても黒幕は変わらないことを揶揄しているというのだ。そのような者がこのカンボジアにいるのか?いるとすれば、それは誰なのか?
 しばし、沈黙が流れた。しかし、この店員は、消えたスーパースターはもうこの世界には戻ってはこないが、私たちの心の中にはずっと生き続ける、ということを言いたかったようだ。

 長いことバルコニーにいた。
 近くのホテルの屋上から聞こえてくるカラオケの大音量は相変わらず続いている。
 ところどころに明かりのついたプノンペンの街のはるか上空には、いつもよりたくさんの星がきらめいていた。