地雷の後に咲いた花 Vol. 2

明 博史

 2009年、カンボジアで異色の美人コンテストがノルウェー人によって企画された。地雷で障害を負った女性を対象とした「ミス地雷コンテスト」。地雷対策、障害者支援機関、NGO、社会福祉省がこのコンテストに賛同し、カンボジア全国から20人の女性が参加した。

 しかし当初は支持していた社会福祉省から突然カンボジア国内での開催を禁止される。障害者の女性を見せ物にし尊厳を損ねるものだとして。2009年12月、コンテストはノルウェーで本人たち不在のまま最終選考が行われ、バッタンバン代表の18才の少女、ドス・ソピアップが優勝しミス地雷カンボジアが誕生した。

 ミス地雷コンテストから2年。彼女はどうなったのだろう? 2011年12月、彼女に会った。

 クメールルージュとカンボジア政府軍の戦闘がまだ続いていた1996年、バッタンバン州バヴェル郡にソピアップの父は兵士として配属されていた。戦闘は収まっていた。娘が恋しくなった父はソピアップを呼び寄せていた。仲間と一緒に魚採りへと出かけた時に銃声が聞こえてきた。クメールルージュか? 野原を逃げている最中に他の1人がトリップワイヤーを引っかけ地雷が爆発、ソピアップは左足に重傷を負った。5才だった。

 ソピアップの左足は切断するより他に仕方がなかった。3ヶ月入院した後さらに自宅で1ヶ月静養してから彼女は学校へ戻ることが出来たがそれは彼女にとってつらい日々の始まりだった。小さな女の子は成長するにつれ自分を恥じるようになっていった。

 女の子は教室でひとりぼっちだった。彼女に話しかける子はいない。一緒に遊んでくれる子もいない。「おい片足、なんで学校に来るんだ? 家でおとなしくしとけよ。」心ない言葉を投げられる。絶望の日々。そんな彼らに対して食って掛かることもあった。彼女は家に帰るたび母の前で泣いた。「泣いちゃだめ。これがあなたの運命なの。」

 ソピアップの家庭は貧しく何とか高校まで進学できたものの卒業できるかどうか厳しい状況だった。援助をお願いしようと障害者支援のNGOの施設を訪ねた時にミスコンテストに出てみないかと声をかけられた。「私みたいな障害者でも出れるの?障害者だけのコンテスト?」 障害者が出ているコンテストなんて見たことがなかったのではじめは信じられなかった。このコンテストは地雷による障害者のみが対象なんだと聞かされ興味が湧いてきた。「このコンテストは障害者を勇気づけ人生に希望を持つためにいいかもしれない。障害者でも他の人と同じようにチャンスや能力があることを見せることができる。」

「ミス地雷コンテスト」はノルウェー人アーティスト、モルテン・トラーヴィクによって企画された。地雷問題の啓蒙と「すべての人に美しくなる権利がある」をモットーに地雷による障害者の女性を勇気づけようという趣旨だ。2008年にアンゴラで初めて開催された。2009年、2回目のミス地雷コンテストの舞台はカンボジア。社会福祉省、女性省、地雷対策、障害者支援の機関やNGOの賛同を得た。カンボジア全国から18才から48才までの20人が参加した。しかし開幕を直前に控え、カンボジア政府はコンテストは障害者の名誉と尊厳を損なうとして国内での開催を禁じた。当初は賛同していただけに主催者は困惑した。人権団体からの批判を恐れたという話もあるが翻意の真相はわからない。

 コンテストはカンボジア国外とインターネット上で引き続き行なわれた。結果、ソピアップがミス地雷に選ばれた。かつて「片足」の女の子はいまや「ミス地雷」となった。まわりの目が変わった。賞金1000ドルは彼女の大学進学資金となった。
 「コンテストに優勝してから友だちみんなが私を差別するのをやめました。彼らは私のことを好きでいてくれます。もしコンテストが開かれていなかったら私の人生は、今ごろ、大学で学んでいなかったと思います。このコンテストは私にとっても良かったのです。」

 コンテストという相対的な「きれい」を選ぶ場でなくてもソピアップはミス地雷になる前から存分に美しかったはずだ。かつて岡本太郎は言った。「美しいというのは、無条件で、絶対的なものである」そして「ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動が起こるのだ」と。地雷や不発弾による障害者に会う。援助対象の哀れな者としてではなく生に格闘する人間として見つめた時、その身体の不完全さの中に、生のしたたかさの中に美しいという感動を見つけることがあった。
 私たちの団体では地雷被害の多いバッタンバン、バンテアイミエンチャイ、パイリンをターゲットに地雷危険回避教育、障害者の声を紹介し共感を得ることを目的としてラジオ番組「Voice Of Heart」の制作、放送をしている。ソピアップのストーリーは強くリスナーを惹きつけるはずだ。インタビューを行ない彼女の声をラジオに乗せ、生放送のスタジオにゲストとして招いた。その日、彼女は短めのスカートをはき松葉杖でスタジオにやって来た。足が1本であることが強調される。美しいと思った。

 スタジオでソピアップはリスナーに向けてメッセージを送った。
「障害者のみなさん、望みを捨てないでください。一生懸命勉強してください。そして、他のきれいな人たちを見て、自分は美しくないとは思わないでください。他の人にできるなら私たちにもできるはずです。人として障害があってもなくても私たちはみんな、何かをしようとする時、それができるはずです。私たちは障害者ですから一生懸命がんばらないと私たちの将来はもっと大変になるでしょう。でも一生懸命にやれば障害のない人よりももっといい将来になる可能性だってあるのです。」

 ソピアップは将来は会社で働きたいと考えている。ミス地雷コンテストの是非はそれぞれの思惑でいろいろあるだろう。彼女にとっては優勝したことが自信につながり賞金によって大学に進学することができた。障害を隠すのではなくそれを「美」として示し勝ち取った自信。ミス地雷コンテストは確実に彼女を大きく前へと押し出した。夢へとつながる一歩。

 「ミス地雷」として咲いた花。この後どんな実を結ぶだろう。

 「障害者だって他の人と同じように恋愛も結婚もできるし子どもも産めると思います。でも今は将来のために勉強をすることと家族のことしか考えないようにしています」
 
 地雷の後に咲いたのは、少女の希望でした。

明 博史 (あけ ひろし)
地雷・不発弾対策支援NGOで働く。バッタンバン在住。赴任して3年が過ぎ、乗っているホンダドリームは走行距離5万5千キロ。カンボジア北西部だけで地球1周半近い距離をモトで走った日本人は他にはいまい。カンボジア人でもいないだろう。たぶん。路の上にも3年。地雷除去後の土地でのコミュニティー開発援助を通じて最近はカンボジアの農村経済に関心が湧いている。