41号

 
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★カンボジア日本人会会報誌「にほんじんかい」第41号2007/0

<記事抜粋>

カンボジア事情(8) ごみの行方、人の行方

 

Japan Lay Missionary Movement/JLMM

 

日本カトリック信徒宣教者会

杉村太郎(すぎむらたろう)

 

 1993年よりカンボジアでの活動を展開。1998年よりストゥンミエンチャイ地区において周辺住民の生活向上支援を実施。「子どもの家」を建て学校に通えていない子どもたちへの識字教室、衛生教育などの学びの場と遊びの場を提供している。

 

 プノンペン全域のごみが集まる ストゥンミエンチャイごみ集積所  プノンペン中心部からバイクで約20分の所に、プノンペン市内全域からごみが分別されることなく集められてくるストゥンミエンチャイごみ集積所がある。ごみから発生するガスが発火し白い煙が視界を遮り異臭を放つ。酷い日には1メートル先も見えない。

 

  ここには捨てられたごみの中から有価物を集め、それらをリサイクル業者に売って生計を立てている家族が多く住んでいる。その中には子どももいる。学校に通っている子もいれば通っていない子も、背景は様々だ。自分より背の高くそして重い麻袋を背負ってリサイクル屋に行く。集められた有価物は、種類別に計りに掛けられ、重さに応じてお金が支払われる。一日に稼ぐ金額は勿論個人差はあるが2ドル程度。その中から子どもたちは500リエルほどのお小遣いをもらう。

 

 急速な発展を遂げているプノンペンは、それに比例するようにごみが増え続けている。その煽りを受けストゥンミエンチャイごみ集積所の閉鎖問題が取り沙汰されている。

  既存のごみ集積所は1965年ごろから稼動している。約40年弱ごみが捨てられ続けているのだ。そして2年後にはキャパオーバーが予想されている。

  しかし、既存のごみ集積所の閉鎖時期は2010年ごろと予想されている。新処理施設建設案がない訳ではない。新施設の場所は確保されているのだが、ごみ収集会社とプノンペン市との間で折り合いがつかず新処理施設建設の話が先に進まないでいるのだ。

 

 ごみ集積所に関わる NGOの懸念

  このごみ集積所閉鎖問題でごみ集積所に関わっているNGOが懸念しているのは新処理施設完成後のごみ収集システムだ。

  既存の施設は誰でも入れる。しかし、新処理施設は関係者以外立ち入り禁止となる。それはつまり有価物が拾えなくなるということ。現在、有価物収集を収入源としている人たちの現金収入手段がなくなってしまのだ。有価物収集者たちの多くが地方出身の農民であり、借金を抱えている家族もあり、技術やお金、コネもないためにプノンペンで他の仕事を見つけるのは困難だ。彼らが職を失い路頭に迷うことが予想される。

 

  JLMMでは1998年からごみ集積所周辺に暮らす家族のための生活向上支援を行っている。ごみ集積所に通う子どもたちへの識字教育、衛生教育、家族への衛生指導などを行っている。そして、ごみ集積所閉鎖問題を前にした今、閉鎖後、彼らが路頭に迷うことなく、有価物収集以外の現金収入手段と安定した収入の獲得のために新たな活動を始めた。

  ここ数年で見られる現象がある。一つはごみ集積所が日本を含めたマスメディアにクローズアップされることが多くなったこと。数年前までカンボジアで活動を展開していたNGOの母体となる某TV局の番組。昨年は別のTV局がごみ集積所とJLMMの取材にも来た。

  もう一つは、観光客が増えて来ていることだ。治安の安定に伴いカンボジアへの観光客が増えたこともあるのだろうが、限られた観光スポットしかないプノンペンでマスメディアの影響もあるのだろうか。大型観光バス2台がごみ集積所に乗り入れることも珍しくないほど、ごみ集積所はプノンペン観光コースの一つになりつつある。同時にNGOや学生団体のスタディーツアーのプログラムの一つにごみ集積所見学が組み込まれるようになってきている。

 

  ごみ集積所の頂上からプノンペン市内の高級ホテルが望める。目の前では人々の生活の営みが成され、白い煙の向こう側ではプノンペンでの最高級のひと時が送られている。2年後、ホテルとごみ集積所の距離は今よりも縮まっていることだろう。私たちの出すごみがそうさせるのだ。

  シェムリアップのアンコール遺跡群をカンボジアにおける正の遺産とするならば、このストゥンミエンチャイごみ集積所は、カンボジアにおける負の遺産と表現できるかもしれない。

 
 

カンボジアの奇人・変人・日本人(8)

♪ステレオサウンドと音響♪

 ジュリー中川

(中川竹広 JICA 短期SV カンボジアボーイスカウト連盟アドバイザー)

 

日本人会の皆様こんにちは!札幌生まれ札幌育ちの中川です。日本人会の皆様には「ジュリー」という通り名のほうが馴染みがあるかもしれません。

今回は「なぜイベントの音響担当になったか」および「ステレオサウンド」についてお話したいと思います。でも難しい話は省きます。

 

まずは昔話から始めたいと思います。20年ほど前ですが知人から「札幌市内にたくさんある子ども会の合同発表会があるのだけど、アドバイスをしてくれないか」との依頼を受けました。子ども会の発表といえども、劇・器楽演奏・合唱・手品などが一日がかりで行われる大規模なものでした。場所は区民センター大ホールでしたが、行って見て愕然。とてもじゃないけど区民センターにある機材では無理だということで、私の持っているミキサー、アンプ、マイクやら一式を貸すことになりました。しかし誰も使いこなせそうもない。そうなるとアドバイザーどころではありません。結局私が音響を担当することになりました。以来、カンボジアに赴任する2004年までの20年間、毎年ボランティアをしてきました。

 

それとは別の話ですが、ずっとかかわっている音響担当に「YOSAKOIソーラン」というのがあります。私がお手伝いしていたのは札幌市豊平区にある「My(舞)豊平」という子供中心の大変可愛らしいチームです。自分の機材と音楽仲間から借りた機材とを地方車に積み込み市内を練り歩くのです。初夏の太陽の下、トラックに揺られながらのPAは過酷でしたが、踊り終えた子供たちの達成感に満ちた笑顔を見ると、本当にやってよかったという満足感がありました。そのお手伝いもカンボジアに来るまで続けていました。しかしカンボジア赴任が決まり、子ども会コンサートとYOSAKOIソーランをどうするか、誰が音響を担当するかという問題が発生。私がいないのですから誰かにやってもらわなくてはいけません。結局、私の機材をそれぞれの会に貸し出すことにして、機械の扱いとバランスの取り方を伝授して、心置きなくカンボジア赴任とあいなりました。音響担当は大変楽しいものではありましたが、心の中には「任期中に私のことを忘れられてしまおう」と考えていました。「任期終了後帰国してもじっとしていよう」という気分があったのも事実でした。

 

さて、カンボジアに来て半年過ぎたころですが、先輩SVが合唱コンクールを開催するにあたって手伝ってくれる有志を探しているという話を聞き及びました。そこでつい「音響なら手伝えるかも・・」と言ってしまったのが運のつき。運のつきというよりも運命だったのかもしれませんね。会場はチェンラシアター。打ち合わせも済ませ、前日になって調整室に入ってみたらいきなり問題発覚。なんと、すべてのセッティングがモノラルだったのです。当時のチェンラシアターの技術責任者にしぶしぶ納得させて、すべてをステレオ配線に変えるという荒行?を行いました。リハーサルと配線変更を同時にこなしつつ、何とか終了。翌日の本番も成功裏に終了。しかし!技術責任者は無情にもコンクール終了後「明日はDVD映画鑑賞会があるから」という、よくわからない理由で全てまたモノラルに戻してしまったのです。これには大変がっかりさせられました。ご存知のようにチェンラシアターは前後左右にかなりの数のスピーカーが配置されています。それらの全てから大音響を出すのが当たり前らしいのです。せっかくの映画鑑賞会ならばステレオサウンドでやってみてはどうかと提案しましたが、あっさりと却下されました。

 

さて、カンボジアでの大音響といえば皆様ご存知のお葬式です。こちらに来た当初は朝から晩まで3日間続く大音響の理由がわからず混乱しました。その後お葬式だとわかってカルチャーショック。カンボジア人の知り合いに、大音響のお葬式という文化がいつ発生したのかと聞いてみましたが「昔から」といわれました。ではどれくらい昔からなのかを訊ねたところ「わからない」とのこと。「そんな訳ないだろー」と思わずツッコミました。どなたか詳しい方がおられましたらご教授ください!

 

2005年。先ほどの合唱コンクールを開催した先輩からまたまたお誘いがあって今度は器楽コンクールを手伝うことになりました。会場はチャットモックシアターです。この会場でもまずはモノラルからステレオセッティングに変更することから始めました。ステレオサウンドは会場でのバランスがとっても大事です。幸い理解のある技術担当責任者だったので助かりました。チェンラシアターで1回、チャットモックシアターで3回の合計4回音響担当をさせていただきました。

 

そんなこんなで任期を満了し、2006年4月に一度帰国したのですが、3ヵ月後にカンボジアへ再訪するやいなや音響の仕事が待っていました。どうやら音響担当は私の仕事という認識が日本人会の中に定着してしまったようでした。その年の11月には日本人会の盆踊りがありました。チェンラシアター横のクリスタルホールが会場でした。少々の失敗もありましたが何とか勤め上げました。前回とはチェンラシアターの音響技術責任者が変わっていたので、またステレオサウンドの説明から始めなくてはなりませんでした。その後も、大使館主催のピアノ・コンサートや能のコンサート、またSVA主催の世界子供文化祭などで音響のお手伝いをさせていただきました。そんな中、何度か仕事をした事のあるチェンラシアターの技術責任者とついに意見が衝突。彼が頑なに「これがステレオだ」と言い張るセッティングはどう転んでもモノラルなのです。埒が明かないのでSVAの手束さんに通訳をお願いしてやわかったことですが、責任者は「二つのスピーカーから音が出ていればステレオサウンドである」という認識だったのです。笑ってはいけません。これが現実なのです。それは違うと説明を続けやっと何とかなりましたがこの先が心配です。

 

うまくいかないことばかり書いてきましたが、良いことももちろん沢山ありました。昨年末の日本人会忘年会はホテル・ル・ロワイヤルでしたが、この会場の技術責任者は、私が出会った中で、ステレオサウンドについて理解していた初めてのカンボジア人でした。ただそれだけで「彼は見込みがある」と感じてしまったほどです。彼には本当に感謝しています。

一番上手くいったと思っているのは大使館のピアノ・コンサート。能のコンサートでは大使館の担当者の心使いに感動してしまいました。

 

音響が好きというよりも私は音楽が好きなのだろうと思います。カンボジアに「一五一会」(一期一会ではありません)というオープンチューニングのギターを持ち込んだのは、おそらく私くらいなものでしょう。この楽器でカンボジアのテノール歌手の方や、トロー(カンボジア伝統楽器)の第一人者ともCJCCで競演させていただきました。最近の日曜日は、ユネスコの神内さんやWHOの遠田さんと一緒にギターを弾いています。この時間が私をリフレッシュさせてくれます。お二人にとても感謝しています。

5月2週目に帰国しますが、音響人生を続けるか否かまだ迷ってます。

私は、奇人・変人ではありませんが日本人です。

 

 
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