連載手記

海外青年協力隊短期専門家 吉岡 大介

ドイツ、イギリス、アメリカでプロサッカー選手、及びセミプロ選手として 7年間プレー。2002年に日本へ帰国、浦和レッズレディースU-18コーチ、 埼玉県選抜U-15女子チームコーチ、JFA(日本サッカー協会)通訳、日本文理 大学(大分)監督兼テクニカルディレクター、大分FC VARENTE監督を歴任し、 全のチームを全国大会ベスト8以上へ導き、今期よりカンボジアサッカー協会 ユースディレクター及びU-16代表監督に就任。


14歳の夏、ある一人のサッカー選手との出会いが、その後のサッカー人生の 全てを変えた。そして、日本から世界へと夢は広がり憧れ、挑戦の日々が始まった。 15歳で単身ブラジルへ渡り、名門サントスと日本人初のプロ契約をし、イタリア、 クロアチアリーグとその後も先駆者として常に挑戦し、日本サッカー界を強く牽引 した三浦和良選手。

彼との出会いから世界への憧れを抱き、19歳の春、単身ドイツへと一人言葉も あてもなく、ただチケットと夢だけを握りしめ海を渡った。

世界で通用するかどうか、無謀な挑戦だということはわかっていた。ただ、 海外でプロサッカー選手になるという揺るぎない信念だけが僕の心を強く突き 動かしていた。

1996年、ドイツ・ブンデスリーガー2部のアルマニア・アーヘンの入団テスト に合格し、プロサッカー選手としての夢を叶え、新しいチャレンジが始まった。 デビュー戦では、当時まだ一度もワールドカップへ出場したことのない国からきた 僕は、日本人プレーヤーということから必要以上の洗礼を受け、試合開始わずか 15分でラフプレーから右手首を骨折。ピッチの外に用意されたタンカに スタジアム内がざわついた。
「やはりJapaneseは弱い!」
そんな空気だけが、ただスタジアムの中を包み込んでいた。しかしながら、 心の中は痛みと本場ドイツサポーターからのプレッシャーよりも、喜びで いっぱいになっていた。
「これだ。これが本場の声」
結果を出すまでは何があっても認めてはくれない。日本にはない、自分自身の 求めていた厳しさと環境がここにはあった。

その後、退場を拒否し続け1ゴール6アシストを決め、この時初めて 「東洋の国、日本から来たサムライ」と本場ドイツからのリスペクトを受けること ができた。
一夜にして人生が変わった瞬間だった。

ドイツ、イギリス、アメリカ、ブラジルと8年に渡るサバイバルライフの中で学んだ事は、 「どんな時でも己を見失うことなく、最後まで自分を信じて戦い抜くことの大切さ」 そして、常に自分自身を高めていくために 「必死になるシュツエーションを作り出していくことの大切さ」だった。

自分自身に妥協をせず、自分の限界を超える状況に立ち向かったとき、人は隠れた能力を 発揮し、さらなる飛躍を遂げていくのではないだろうか。その原動力となるのは、 「チャレンジをする勇気」であり、「夢を叶えたいという強い意志」だと思う。

世界で通用する日本人指導者になる。次なる夢へ向かって、いまこのカンボジアでの 一瞬一瞬を大切に生きていきたい。



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