ここには日本語あふれてる

カンボジア日本人会 プノンペン補習授業校
平成二十四年度保護者会会長
廣田 健一郎

 なぜ私がプノンペン補習授業校の保護者会の会長などという大役に選ばれてしまったのか? 前任の後藤会長から声をかけられたのはたしか一月頃でした。朝十時頃で、私は補習校の校庭で『名探偵コナン』を読みふけっていました。たぶん「こいつはヒマそうだ」と思われたのでしょうか……。
 当時、幼稚部に子供が入園してまだ一年足らず。補習校の運営のことなど全くわからない私に、後藤さん曰く「保護者会会長の仕事は土曜当番を決めることがほとんどで、あとは雑用ですね。」「では、他にどうしてもなり手がいない場合には……」と答えてしまったのが思えば運のつきでありました。
 補習校と私のかかわりは、吉田初代校長先生のパソコンを直しに行ったところ、「あんた教師やんなさいよ!」と命じられたことから始まります。補習校は当時開校間もなく、ノースブリッジに間借りしており、スクールバスが走っていたので、私もそれに便乗したものです。その時小一だった子たちが昨年中学を卒業したのには大変びっくりしました。
 日本へ一時帰国するまで、三年ほど先生をやりました。この補習校開校以来、先生と保護者の両方をやったのは、私のほかにお一人、男ではたぶん私が初だと思います。吉田先生の率直な人柄に導かれた部分が大きかったと感じています。
 吉田先生との思い出はとても数多いのですが、特にホーチミン市に出来立ての日本人学校に間借りする補習校を見学に行った時の行き帰り陸路の道中は忘れられません。行きはモックバイでしたが、吉田先生はドンをお持ちでないのに、私だけ国境でドンを払ってジュースを飲んでしまい、気が利かないと後から何度も言われつづけました。帰りはチャウドックから国境までオートバイタクシーの後、メコン川をボートで遡りました。オートバ
イタクシーの後、メコン川をボートで遡りました。オートバイが非常に飛ばしたものですから、「死を感じた」と後から何度も言われつづけました。
 あんなに元気な方がある年のクメール正月、あっさりいなくなってしまうとは、本当に信じられないことです。日本のご自宅で営まれたお別れ会には非常に多数の方が参集なさいました。今は毎年四月下旬に有志とウナロム寺の吉田先生にお参りをしています。「あんたが保護者会会長! ハハハハ、やめてよ」と今年は吉田先生に笑われた気がしました。
 カンボジアの経済はうなぎのぼり、プノンペンに住む日本人の数も今後急激に増加するものと見込まれます。補習校の果たすべき機能は待ったなしの状況であり、多くの課題から目を背けずに進んでいく必要があります。ひとたび保護者会会長になってみれば、まわりから求められる役割はとても「土曜当番決めと雑用」などという生やさしいものではないことがすぐにわかってきました。どうかなにとぞ、皆様のお知恵とお力を積極的にお貸しいただき、プノンペンにおける日本人子女の明日の教育環境を先生方とともに守り育て、発展させていく上で微力を発揮することができればと願ってやみません。