消えたシクロが教えてくれること

ユキ姐さん


 先日、カンボジア人スタッフを連れて日本に一時帰国した際に、神戸、大阪、京都、鎌倉、江戸(?)…という何とも贅沢な旅をした。日本の各都市を巡っていると、それぞれの街や生活、雰囲気の違いが比較できてなかなか面白かった。
 神戸の観光用バスに大阪や東京の地下鉄・各種鉄道、鎌倉の路面電車と、ところ変われば乗り物変わる、いろんな乗り物を駆使して楽しい観光の旅をしたのだけど、京都、鎌倉で「人力車」の客引きを見て、カンボジア人スタッフが興味深そうに写真を撮り始めた。「ああ、これは人力車。カンボジアのシクロみたいなものよ。観光地にしか走っていないし、値段も高いので一般客は乗らないけどね」
 そんな説明をしながら、私の想いは18年前のプノンペンに飛ぶ。
 私がカンボジアの地に初めて足を付けたのは、1994年7月のこと。飛行機が着陸すると砂埃があたり一面に飛び、そしてなぜか滑走路の横では牛が草を食べていた。プノンペン国際空港が、まだ「ポーチェントン空港」と呼ばれていた時代だった。
 あの頃は、車はUNとかNGOのマークを付けたものばかりで、トゥクトゥクはなく、モトドップとシクロが主流だった。乗り方もわからないし…と、汗だくで徒歩でマーケットに通った数日が過ぎると、次にシクロに乗れるようになる。たどたどしいクメール語で目的地を告げ、プノンペンマップをぎっしり握って通りの番号を確認し、どうにか目的地までに着くなんてことを繰り返し、次第にシクロは生活に欠かせない乗り物となった。
 だんだん余裕が出てくると、心地よい風を切り、ギコ、ギコ、というリズムに乗りながら、今度はシクロの運転手さんとの会話が楽しくなる。どこの出身なの? 家族は? 兄弟は? ほとんどの運転手さんが地方からの出身で、おじいさんもいれば、まだ20代そこそこの若いお兄ちゃんもいる。貧しくて、田舎では食べていけなくて、プノンペンに出てきてシクロを生業としているのだ。当時は1ドルが2500リエルだった時代。ボンケンコン地域から中央市場まで700リエルほど。大目にお金を渡すと、にこやかに頭を下げてくれた。
 シクロの運転はとてもきついのだそうだ。漕ぎ出す時が一番大変で、思いっきり力を入れなければならない。ブレーキが運転席の後ろ側についていて、それを引っ張って止まるのだが、漕ぎ出すのが大変なので交差点では徐行をして完全に停止しないようにしていた。坂道は特に大変で、比較的起伏のないプノンペンの中でも、モニヴォン通りを北上し、シアヌーク通り越える手前のあの坂(現在の Gold Tower のあたり)は本当にきつそうで、前を走るシクロを漕ぐ彼らの背中を見て、がんばれ、って一緒に力を込めていた。舗装されていない各地の道路がドロドロに雨水でぬかると漕ぐのがとても辛い。そんなときは、運転席から降りて私たちの前に出てきて、シクロを手で引っ張って前に進める。私たちを目的地まで連れて行こうと必死に汗を拭きながら、ゆっくりと一歩ずつ、リズムを崩さず前に、前にと進むのだ。雨が降ったり、日差しが暑くなると、幌のような屋根をさっと出してくれる。心あたたまるサービス満点のシクロが、私は大好きだった。夜は路上の軒先で、シクロに蚊帳をとり付けて寝ている様子も目にした。でも、「あそこはシクロ運転手さんが行く、安くてまずい屋台だから」って、私たちは「高級」な屋台に連れて行かれるのだ…。
 あの頃の私は、そんなシクロの運転手さんたちの息遣いを毎日のように感じながら生活していた。家から外に出て、道路の角あたりの木陰の下にいるシクロを遠くから「シックロ~」って呼んで値段交渉をし、さっそうとシクロに乗り込む小粋なプノンペン娘だった。2人で乗る時は座席の前のほうと後ろのほうにずれて座る。3人乗りの時は1人がシクロの背もたれのところに座って、その下の座席に2人がずれて座るという、「高度な」シクロ活用術も覚えた。荷物が多い時も、足元にいっぱい乗っけて、詰めるところに積めるだけ積んで、市場から家まで帰って、重たい荷物を持って階段を上ってくれる運転手さんもいた。
 赴任から半年過ぎたくらいから体の調子が悪くなり、目に見えて痩せていった。いよいよ病気治療のための帰国をすることになった時、毎週日曜日になると私の家に集まって朝から晩まで飲んでは語っていた仲間が「浴衣を着て。外に行こう。シクロに乗って、市内観光しよう」って誘ってくれた。高校の時におばあちゃんに教わって手縫いで縫い上げた浴衣を来て、協力隊の先輩隊員と民間企業に勤めていた親友と、そしていつも仲良くしてくれたカンボジア人の同い年の女の子と、シクロを2台連ねて街中を走り回った。王宮、川沿い、独立記念塔、ワットプノム、モニヴォン通りを一気に走り抜け、あちこちで記念写真を撮った。その写真を持って私は帰国し、隊員としては戻って来れなくなった。入院中も、カンボジアに帰りたい、帰るんだと言ってはその思い出を支えに治療をした。
 1年後に自力でプノンペンに戻り、再びシクロとの生活が始まった。しかし、この18年間の流れの中で本当にいつこの時点からということはわからないが、いつの間にかシクロは街からいなくなり、観光用でどこかの団体が守っている様子を目にするだけとなった。私も当たり前のようにモトドップ、トゥクトゥクに乗るようになり、今では自分の車があって、シクロがいつからいなくなったのかさえ、記憶にないのだ。
 カンボジア人はシクロを「排除」してしまったたのだろうか。それによって何かを失ったのだろうか。それはカンボジアにとっていいことなのか、悪いことなのか、自然の流れなのか、時代と言って片づけていいことなのか…。交通事情の問題でもはや街中をシクロが走ることはないだろう。かといって、シクロが消えてしまってからの十数年間この国でこの国の人たちと一緒に働き、生活をして来た私には、「急速な発展をしている我が国にはそんなレトロなものよりも絶対に新幹線のほうがいいに決まっている」と言い切るほど、カンボジア人は自分たちの文化や生活スタイルを捨て去っていないのでは思う部分もあるのだ。どんなに、辞書に書いてあるような「発展」や「生産性」が外国から持ち込まれたとしても、自分たちのリズム、いわばあのシクロのギコ、ギコ、というリズムを持ち続けている、そんな強さがカンボジアの人々にはあるような気がするのだ。カンボジアの人たちの心の中に走り続けている「シクロ」を理解することが、私たち外国人がカンボジアに来て最初にすべきことなのかもしれない…。人力車の客引きをしているお兄さんの話を聞きながら、私はそんなことを思った。


ユキ姐さん (ゆきねえさん) 
通称ボンユキで知られるユキ姐さん。カンボジア在住18年なのでそれなりの年齢と推定されるが、あくまでも年齢不詳。
通訳・翻訳・マネージメント業にチョー忙しいのに、飲み&カラオケは欠かさない。「ぶれない女」の鏡を目指して日々奮闘中。