【アーカイブ3】

在カンボジア王国 日本国大使館 特命全権大使 黒木雅文

 カンボジア日本人会の皆様

8月末に、駐カンボジア王国特命全権大使として着任しました黒木雅文です。同伴の妻と娘2人ともども、よろしくお願いします。


 1974年に外務省に入って以来、海外勤務は、フランス、ベルギー、コート・ジボワール、マレーシア、インドネシアと経験し、今回、カンボジアへ赴任してきました。


 カンボジアへはこれまで3回出張に来たことはありますが、初めて来た1993年以来、来るたびにこの国が良くなっているとの印象を受けましたが、今回約1ヶ月住んでみて、今のカンボジアは平和で落ち着き、人々も穏やかで、生活環境も格段に良くなっていると思います。東南アジアでの勤務は、3カ国目になりますが、それぞれの国にそれぞれの歴史、伝統、文化があるので、カンボジアらしさとの出会いを楽しみにしています。


 皆様ご存知の通り、カンボジアにおいてこれまで日本は大きな役割を果たしてきました。和平合意から平和構築にいたる政治的な面、復興から開発にいたる経済協力、日本のNGOの方々による市民レベルでの協力、アンコール遺跡保存事業に見られる文化面での協力等々、枚挙にいとまが無いほどいろいろな分野で日本のプレゼンスは高いものがあります。同時に、日本に対するカンボジア側の期待も非常に大きく感じます。また、10月3日にシアムリアップで開かれた日・メコン外相会議の際に、日・カンボジア外相会談が行われましたが、その中で、岡田外務大臣より、日本がカンボジアを最重点国の一つとして、インフラ整備、人材育成などあらゆる面で支援するとの基本的な考え方は鳩山政権でも変わらないと述べました。これまで先人の方々のたゆまぬ努力により築かれてきた両国の関係に安住することなく、更に一層確固としたものにしていく必要があるとの責任を強く感じています。


 カンボジアは過去の負の遺産を乗り越え、経済社会の発展を更に一段階高めようという未来を向いた新しい段階にあると思います。日本との関係では、これまでの開発援助のみならず、民間ベースでの貿易投資が促進され、カンボジアの一層の経済発展に寄与してもらえればと思います。これまでお会いしたカンボジア政府要人は、フンセン首相をはじめ多くの方が日本からの投資への期待を述べられていました。


 カンボジア日本人会は、在留邦人の方々の交流促進とともに、盆踊り大会等によりカンボジアの人々との交流も進められていると聞いています。日本人会の今後の更なる発展を期待しますとともに、在留邦人の方々がこの国で、より快適かつ安全に過ごせるよう、大使館としても日本人会と一緒に引き続き努力していきたいと思いますので、よろしくお願いします。
プノンペン補習校の社会見学 2009年度 球技大会

 

エイッ!         キャー!

誰にしようかな?   俺かな? 僕は関係ないよ・・・    それっ! いててて・・・    私のボールよ! 消えるバット?! 打ってやる!     打ってみろ!

2009年度カンボジア日本人会球技大会

 去る6月7日に行われた「球技大会」は、雲ひとつ無い晴天の下、予想を上回る参加者(実行委員会が把握した参加者数:107名)を集め、大盛況のうちに無事幕を閉じました。


昨年同様、「ソフトボール」「バレーボール」「ドッジボール」が行われ、各種目とも参加者の日頃の弛まない練習の成果(?)がぶつかり合い、見ごたえのある好ゲームを展開していました。

「ソフトボール」では、3チームともに1勝1敗で並び、しかも得失点差も同じ(3試合全てが1点差ゲーム)という事態が起きていました。

「バレーボール」では、どのチームも即席チームとは思えない抜群のチームワークを発揮し、得点時の盛り上がりやミスをしたときの励まし合いは、「春高バレー」を見ているのかと思わせるほどでした。

補習校の子供たちによる「ドッジボール」は、大人顔負けの力強いボールを投げる上級生とコート内を上手に逃げ回る下級生に加え童心に帰って子供よりも楽しんでいた大人が入り乱れ、笑いや歓声が止まない空間となっていました。


 競技終了後に行われたバーベキューパーティーでは、参加者全員がお互いの健闘を称え合いながら、更なる親睦を深めることができました。皆さん、暑い中お疲れ様でした。


球技大会実行委員長 馬田英樹
    サア来い!  受けてみろ、私のサーブ! レシーブまかせろ!私どこいたらいいの? スパイク!あれっボールが遠い! セッターはどこ? 無事に生還! 次は俺の番。やってやるぜ! ②抜けろ三遊間! ①よーっく引き付けて・・・  

第12回 熱投!ボーリング大会

2009年8月30日 パークウエイスーパーボウル

おめでとうございます! ベストスコアー賞 : 八木和彦さん(JICA) かっこいいー! 中原憲一 日本人会会長の力のこもった一投! さすが、ボーリングのプロ お父さんと一緒に 女性人3名による華麗なるフォーム① 足に落ちそう 女性人3名による華麗なるフォーム② まっすぐ行けー 女性人3名による華麗なるフォーム③

第12回 熱投!ボウリング大会

去る8月30日、恒例のカンボジア日本人会ボウリング大会が開催されました。今年でなんと12回目、日本人会定番のイベントとなりました。

今年参加したのは、12チーム計36名。はやる気持ちを抑えきれずに、朝9時の集合時間より前に続々と参加者が集まってきました。

が、しかし、ボウリング場の貸靴の担当者がなかなかやってきません。「裸足でいいから始めよう!」とやる気に満ちた参加者もいましたが、定刻の9時ちょうどに担当者が到着。ようやく参加者は靴を手にしました。

さて、いよいよ競技開始。久々のボウリングでなかなか調子が出ない人が多いようでしたが、序盤から親子そろって次々とストライクを連発する家族も。老朽化の進む機械の不調も多少ありましたが、大きなトラブルもなく大盛況のうちに競技は終了しました。

残ったピンを機械がつかみ損ねて「ストライク!」というようなこともあったかもしれませんが、運も実力のうち。私のスコアーは決して言い訳のできるようなものではありませんでした・・・

消えゆくカンボジアのボウリング場。現在残っているのは、今回、会場となったパークウェイスーパーボウルのみとなりました。しかも、老朽化が進んでおり、今後もカンボジアでボウリングを楽しむことができるのか心配です。しかし、ボウリング場がカンボジアから消えてなくなるまで、この大会は続いていくことでしょう。
(終)山崎 勝(JVC)
私はわたし、マイペース        とりゃっ!

捻りをきかせて、とおっ!

ちぇっ・・・・・ そっちに行かないでえー ナイス、ストライク! キャッ!スペア取っちゃった。 みんなで乾杯。懇親会にて JICA鈴木所長による乾杯の挨拶 優勝チーム授賞式 : チーム鈴木   月刊 カナモリ 第7回 カンボジア事情

「文化のギャップ」

CIESF(カンボジア国際教育支援基金)理事・カンボジア代表

National Institute Education(NIE) Sciences Advisor   金森 正臣

 文化をどのようにとらえるかは、様々な方法が有り一様では無い。私自身は、動物の生態学が専門であるから、文化を研究する分野では無い。しかしチンパンジーなどと付き合っていると、文化の起源には良く出会う。友人に様々な文化人類学者や自然人類研究者がいて、よく議論していたから、それなりに考えることが有った。文明が形に残る物を含むのに関して、文化と言うとハードを含まないと考えられることが多い。

 文化の起源を考えると、既にサルの時代からある。チンパンジーなどでは、同じものが有っても、食べる、食べないの相違が地域によって存在する。また、様々な食べ方も地域によって異なる。ニホンザルのイモ洗い行動で有名になった幸島のサルは、最初に一匹が始めた「砂を海水で洗う」行動が、群れの他の個体にどのように伝搬したかと言う研究で、注目を集めた。この集団では、他にも次々と新しい技が、出来て行ったことが知られている。私は、この様なことから文化の起源を、「文化とは、生存のために親から子どもに、或いは世代を超えて伝承される、行動様式」と定義している。即ち、遺伝子上に乗ったものでは無く、誕生後に獲得される行動である。文化と言われる行動様式は、様々に分化発展したために、現在の人間行動を見ていると、多様過ぎて簡単に起源が理解できない。ある部族の挨拶の仕方は、他の部族では通用しない。またある部族の通過儀礼は、他の部族では行われない。しかし、上の様に文化を考えると、複雑な人間の文化にも、いくつかの基本的な共通な問題が見えてくる。

 

写真説明:<路上に作ったチェス盤>貧しくても楽しく遊ぶ天才・カンボジア人・・・・・路上の下水の蓋の上に碁盤を作って、カンボジアのチェスを楽しんでいた。駒は、レストランから拾った貝殻と煉瓦のかけら。確かにお金はかかっていない。日本では、子どもはこの様な遊びをするが、大の大人はあまりしない。カンボジア人の体型を見ていると、幼児型を残したまま大人になっているように感じられることが多いが、遊びもそうなのだろうか。

 

 人間は、どの生産様式で生活するかで、行動様式が大きく異なって来る。例えば、定住する、しないは、生命を維持するエネルギーを得るための生産様式に関わる。狩猟採集や遊牧では、いつも移動を必要とするから、定住することはできない。常に移動を伴う生活様式は、多くのものを持てないから、最小限の生活道具になる。「食の文化誌」を書いた友人の石毛直道から、「調理法は調理道具に依存する」、と言われて目から鱗の気分になったことがある。確かに、鍋が無ければ煮込むことは不可能である。臼が発達しなければ、ウドンやソバは、出来ない。彼はアフリカの食文化を、焼く文化だと言っていたが、焚き火に石を入れて熱くし、焼くのは最も初期からあった原始的調理方法であろう。今でも石器や縄文式土器を使っているアフリカの部族を見ていると、妙に納得してしまう。イギリスなどで料理があまり発達しなかったのは、移動する遊牧民起源の文化なのではないかと思っている。大阪の民博の松原毅は、トルコのユルック(歩く人の意味)を研究していて、遊牧民の特徴を詳細に調べた。家畜に餌をより多く食べさせるために、謝らない文化が出来上がっている話に驚いたことがある。草場をめぐって、言い争いながらでも、自分の家畜に餌を食べさせようとすると言う。家具は少なく、調理法も単純である。しかし、観天望気で、自然の法則を読むことは、自分の生活を守ることでもある。これが西洋の法則科学である、自然科学の発達に関係しているであろうと思っている。文化の基底には、自然環境が大きく影響している。農耕が出来ない荒れ地に遊牧が発達し、肥沃な土地には農耕が発達する。遊牧は、薄く広がったエネルギーを、動物に集めさせて利用する方法である。

 カンボジアは、農耕民族であり、水田農耕を主にしている。土地を耕す農耕民族は、土地に縛られて移動が出来ないことに、その特徴がある。遊牧民が、太陽のエネルギーを家畜に集めさせて摂取するのに対し、農耕民は、光合成した植物から直接エネルギーを得る。生態学的に見ると、同じ面積当たりでは、植物食は、動物食よりも100倍のエネルギーが得られる。古い4大文明が、いずれも農耕を生活様式としていたことは、この様な接取エネルギーの差によるところが大きいであろう。集めたエネルギー量が多ければ、余裕のある暮らしが出来る。余裕が出来ると瞑想や妄想も多くなり、様々な思想を生み出す様だ。4大文明はいずれも死後の世界を持っており、墓を作っている。長い時間とエネルギーをかけて、思想が発達したことが伺える。カンボジアの遺跡群も、ほとんどが死後の世界に関連しており、日常の仕事に追われるよりも、ゆったりとした時間を使って、妄想を巡らせた人たちが多かったことであろう。遊牧民の様に、毎日乳を絞って食を得なければならない生活では、妄想を巡らせている時間は無い。しかも動物たんぱく質は、長期間の保存が難しいから、余裕はなかなか生まれない。

 カンボジアは貧乏ではあるが、生産性が高く、豊かな食料に恵まれている。ポルポト時代でも、飢え死には少なかったと言う。日本など温帯に属する場所は、寒い期間が有り、植物の生長が止まる冬には、貯蔵が必要不可欠になる。この寒さを乗り切る冬仕度は、基底に計画性を伴っている。ところがカンボジアでは、温度が高い、湿度も高くなるなど、食物の貯蔵は難しい。日本でも、我々の時代には、皿の上に乗った食物を残すことは罪悪感が有った。カンボジア人は、貧しい人々でも食物を残して捨てることに躊躇が無い。生産性が高い、保存が難しいなどの問題と関連して、発達した文化であろう。お金が入れば、すぐにレクサスやバイクに使ってしまうカンボジア人の感覚に、違和感を持つ人も多いであろう。計画性のなさは、相当なものである。路上の乞食が、トランプなどで賭けているのも、日本人にはなじまない感覚である。無意識を研究した臨床心理学者のユングは、無意識の構造を、個人的無意識(誕生以来の経験による無意識)、文化的無意識(育った文化の影響を受けた無意識)、普遍的無意識などに分けた。人間の行動に影響を与えていながら、意識できない部分が無意識である。文化的無意識は、日本の気候風土の中で育った無意識を指しており、冬を越すための計画性を考えるのは当然のことと思っている。この様な無意識があると、カンボジア人の計画性のなさを嘆いたり、向上心の少なさを嘆いたりすることになる。誰だか分からないほどの極端な厚化粧や、見せかけの豊胸にはなかなかなじめないところがある。これなどは儒教の教え「高言令色鮮矣仁」が、日本の文化に強い影響力を持っていたためと思われる。自分で意識できない文化的こだわりによる、ギャップはなかなか乗り越えることは大変である。

日本人の計画性は、水田農耕と冬によるところが大きいと思われる。カンボジアの計画性のなさは、同じ水田農耕の日本から見たとき、不思議に感じることが多い。日本では、温度に制限されて、代かきや田植えの時期、収穫の時期が決まって来る。カンボジアは、温度はいつでも間に合っていて、作業の制限要因は、水に限られる。この水の要因が、計画性をなくす要因になっているように見受けられる。メコンの水の水位の変化は大きく、人力をはるかに超えている。そのために、基本的に稲作は、水が少なくなり始めてから始まる。毎年増水がどこまで行くのかは、予想がつきかねるからである。メコンデルタは、稲作の始まった地域であると思われるが、技術的には自然に依存せざるを得なかったのであろう。日本の技術から見ると遅れているところが目につく。だからと言って、日本の技術を持ち込めば、使えるかと言うとなかなか難しい自然の条件がある。いまだに稲作が発生して以来変化していないと思われる、浮稲(ウキイネ)などを作っているのは、自然の条件の日本とは異なる厳しさを示しているのであろう。また共同で水や水路を管理する日本の農業と異なり、カンボジアの農業はほとんど人工的には水を管理しきれていない。この共同作業の有無が、社会規範の相違に大きく影響している。仕事をしている人が居ても、すぐ脇で平気で遊んでいる感覚は、日本の従業員には見られない感覚である。
 
 第17回 カンボジア事情

「カンボジアの農業・灌漑事情」

JICA専門家 (水資源・気象省) 塚本 重光

 私は水資源気象省で実施されているJICA技術協力「灌漑技術センター計画フェーズ2」の専門家をしています。9月末でカンボジアでの専門家活動を終えることもありますので、3年3ヶ月の経験を通じて感じたカンボジアの農業及び灌漑事情について、紹介させて頂ければと考えています。

1.カンボジア農業の潜在能力
最初に、私が感じているカンボジアの農業の特徴を一言で言えば、「カンボジアは農業を実施するには、大変潜在能力の高い国」ということです。地平線まで広がる広い農地、時として洪水として猛威をふるうものの恵まれた水資源、豊富な労働力と役畜(有機農法を実施するうえでも有益)など、灌漑による適切な水の管理、優良な種子の供給と適切な営農指導を実施すれば、あまり多くの肥料投入を行わなくても、農業の生産性を伸ばすことが十分可能といえます。

2007年にJICA等ドナーがカンボジアの農林水産省及び水資源気象省と連携して策定した「農業と水戦略」でも、「カンボジアには土地、水の資源が豊富に賦存しているが、十分に管理、利用されていない。また、農業と水に関する技術、情報も、資金及び技術者の不足により、普及の範囲は限られていて、十分に活用されていない。このため、人材育成と技術情報の整備を行い、河川流域単位での土地・水利用計画の策定、灌漑事業の実施による農産物の生産性向上と多様化を進めるとともに農産物の市場開発と農産物の付加価値を高めていく取り組みを強化し、農業の発展を通じた、農村経済の活性化を図り、農村部の貧困を解消する。」との戦略が取り纏められています。農業水分野への支援に関心のあるドナーも、カンボジアの農業の潜在能力を正しく認識し、政府とドナーが連携して、この開発ポテンシャルを効率的に引き出し、経済成長の牽引役としての農業の機能を高め、人口の8割が居住するとされる農村部の貧困対策を進めようとの意見で一致しています。

また、近年、中国、韓国や中東の国々が、自国の食糧安全保障の観点などから、カンボジアでの農業投資に関心を示しているといった記事等をよくみかけられると思いますが、これらは、まさにカンボジアの農業の潜在能力に目をつけ、投資による見返りが得やすい国の一つとして見ている由であり、多くの国々がカンボジア農業の発展可能性に期待していることを容易に理解いただけるのではないかと思います。

2.経済成長の基礎となる農業の現状と役割 カンボジアでは、稲作、ゴム、カシュナッツ、キャッサバといった土地資源を有効に活用できる分野の農業生産は、近年、順調に伸びています。一例として、図1に米(籾)の生産量及び図2に単収の推移を添付していますが、2004年までは米の生産は自給ラインをかろうじてキープという状況でしたが、カンボジアの土地資源に目をつけたタイ、ベトナムといった周辺国の農業への参入機会も増大し、農民の農業への投資意欲の増大、ドナー/NGOの支援や政府の農業・灌漑政策の効果も手伝い、2005年以降、米などの農業生産は飛躍的に伸びています。

カンボジアの過去10年間の平均経済成長率は9.4%で、この経済成長を牽引してきた主要セクターは縫製業、観光業、民間投資による不動産開発・建設業とされています。農業の平均成長率は4.4%程度(2003-08)ですので、先の3つのセクターと比較すると少し見劣りし、GDPに占める農業セクターの位置づけも数字で見れば年々低下しています。しかしながら、最近の農産物価格の上昇は、農民の農業への投資意欲の増大とうまく連動して、堅調な農業の発展を維持しており、地道ではありますが、カンボジアの経済成長を確実に下支えしています。

この下支え効果はGDPに占める農業セクターのシェアからも伺えます。世界経済危機の中、2008年の農業セクターの経済成長率は5.4%を堅持し、GDPに占める農業セクターのシェアは、前年の28.5%から34.4%へと、これまでの低下傾向から、一転反転しており、2009年においても、より高位の数字で現われると予測され、カンボジアでは農業が経済危機の影響を確実に吸収し、社会の安定・安寧に貢献しているといえます。

今回の世界経済危機は、カンボジアの経済成長を牽引してきた縫製業、観光業、建設業にも少なからず影響を与えており、職を失った人々の雇用対策が、日本と同じようにカンボジアにおいても問題となっています。もちろん農業にも経済危機の影響が及んでいないわけではありませんが、その影響は他のセクターと比較すればいたって小さく、経済成長の下支え役、失業者の受け皿として、また、外需の影響が小さい最も有望かつ有効な内需拡大分野として、農業を通じた経済成長の意義が更に見直されています。このような中、カンボジア政府は経済危機により冷え込んだ経済を活性化させるため、公共事業による景気刺激策を検討しており、経済の下支え効果が高く、雇用対策、建設業対策にもつながる灌漑農業に特に高い優先順位を与えています。しかしながら、せっかく適時・適切な政策を打とうとしているのですが、カンボジア政府の予算規模が小さい上に、海外からの民間投資が低下し、税収も落ち込んでいる現状ですので、カンボジア政府として、効果的な財政出動が出来ず、途上国にありがちではありますが、実現のほどはドナーの支援・拠出頼みという点で、機を見て敏なるとはいかず、少し残念な状況にあります。



 

3.貧困対策と農業
カンボジアの農村には人口の約8割が居住し、その多くが農業にその生計の中心をおいているといわれており、農業の支援は貧困削減に有効との整理がなされています。経済の成長エンジンが、縫製業、観光業、建設業といわれ、これらの成長は主としてプノンペン、シェムリアップ、シハヌークヴィルといった都市部に集中し、農村部はその恩恵を預かりにくいわけですから、彼らの生計の基礎をなす農業の支援を実施することは貧困削減に有効というのはなんとなくわかり易い整理と思います。ただし、感覚的に納得できるのですが、農業が貧困削減に貢献しているわかりやすいデータ等を提供できないのが、この分野の開発に携わっていて、ふと感じる難点です。

カンボジアの貧困削減については、国連の2015年までに貧困者の割合を半減するとのミレニアムゴールがあり、2005年に最初のレヴューが行われています。同レヴューにおいて、当地では世銀やUNDPが主導的な役割を担っており、2006年に世銀報告書がでています。右報告書では、1日当たり1ドルに満たない生活を送る貧困層は2005年時点で約35%に対し、2001-05の削減率は年率1.1%程度であり、このペースでは2015年までに貧困者の割合を半減(19.5%)するとの目標達成は難しいとの分析がなされています。また、達成までのハードルとして、農業の成長率が3.4%と他の産業と比較して緩慢だったことをあげ、農業の成長率が4%以上あれば、目標達成は可能との試算を行っています。

前述の図1の通り、2001-04は洪水や旱魃等自然災害の影響もあり、2005—08に比較すれば、必ずしも農業生産は堅調に推移したとはいえない時期にあたります。しかしながら2005年以降は、堅実な成長を続けており、2003-08の農業の平均成長率は4.4%程度に達しています。現時点では、2006年に世銀報告書が期待した成長率は達成していることから、2010年に再レヴューが行われるかはわかりませんが、世銀の仮定通り、堅調な農業の発展によって、貧困を半減するとの目標達成が可能となった等の分析が行われれば、カンボジアでは農業の発展が貧困削減に有効であったとの正なるインパクトを正しく提供可能になります。

4.灌漑による適切な水の管理
カンボジアの雨季は、5月―6月の南西方向からくるモンスーンによる雨が降る時期、7月―8月の小乾期、9月―10月のモンスーンの気流と北東からの気流が衝突、収束し雨が降る時期の3つに分かれています。農業を実施するうえで悩ましいのは、7月―8月の小乾期の存在で、これは旱魃の発生を容易とし、5月―6月に作付けした稲などが旱魃で枯れてしまうといった問題から、農民の農業への投資意欲を減少させています。

今年も8月上旬までは、メコン上流域での雨が多かったこともあり、新聞等では洪水被害がより多く報道されていましたが、8月中旬以降は、一部地域で雨が降らなくなり、反転、旱魃被害が報道されています。洪水を旱魃時の灌漑用水に有効利用できれば、この種の旱魃の心配と農民の苦労をかなり軽減できるのですが、灌漑施設の整備が遅れているカンボジアでは、まだまだということで、毎年、この時期に、旱魃と農業被害が報道されるのは灌漑技術者としては残念でなりません。

また近年、気候変動による影響は世界的関心事項となっていますが、各種調査等の結果、アジアで気候変動による影響を受けやすい国の一番がフィリピン、2番目はカンボジアとも言われています。多くの国民が農業に生計の基礎をおいているカンボジアでは、上述の通り、地形由来の気候にも十分適応できていないわけですので、更に気候変動の影響を受けては、もっと大変ということになります。

この気候変動問題に関して、カンボジア政府は2006年に気候変動適応対策計画(National Adaption Program of Action to Climate Change (NAPA))を取り纏めていますが、右計画においても、気候変動による影響がカンボジアの基幹産業である農業生産に与える影響が大きいとの整理の下、灌漑地域の拡大と水資源の管理を最優先プロジェクトに位置づけ重点的に実施し、気候変動により生じうる災害被害(旱魃及び洪水)の軽減を図ることとされています。

以上のように、カンボジア政府も灌漑農業の必要性を正しく認識しており、四辺形戦略、国家開発戦略や公共投資計画の中で、灌漑施設の整備には高い優先順位を付し、少ない予算ではありますが、その対策を進めています。図―3は灌漑面積の推移を示していますが、面積は確実に拡大しており、これが、近年の米の生産拡大に少なからず貢献しています。

限られた予算の有効活用という視点からは、カンボジアの灌漑施設の整備について、優先的に実施するものをあげろといわれれば、私は、まずポルポト水路の有効活用を推奨します。カンボジアには、ポルポト政権時代に作られたポルポト水路に代表される灌漑施設が多数存在し、カンボジアの穀倉地帯に張り巡らされたポルポト水路の総延長は1万5千キロにも及ぶといわれています。残念ながら、このポルポト水路は、水源施設や水源施設との連結が不完全だったりするものが多く、その機能を十分に発現できていません。しかしながら、これらの施設の多くは、ちょっと手を加えれば、その機能・効果を比較的容易に発現できるものが多数存在し、少ない投資でより多くの効果を得ることが可能となります。

5.最後に
本日のカンボジアデイリー(9月1日付)にEUが、カンボジア政府に米の輸入関税をゼロにするといった記事が掲載されています。タイ及びベトナムには、輸入関税ゼロは適用されていないということですので、カンボジアからEUに米を輸出するメリットが高まったといえます。多くの国が、カンボジアの経済発展を農業のてこ入れを通じて実施しようとしており、農産物の加工・輸出体制が整備され、いつの日か、カンボジアからの農産物輸出が実現し、灌漑農業によって増産される農産物との相乗効果によって、より大きな果実をカンボジアの農村及び農民に与えてくれること期待してやみません。

   第17回 カンボジア雑記

「カンボジア雑感」

CAMCAL  神崎 紘邇

 私が初めてカンボジアに来て今年で早丸40年になる。
当時25歳の若造が既に65歳。早いものだ。1970年ロンノルのクーデターで一旦逃げ帰り1987年に再度足を踏み入れて、カンボジアの荒れ果てた様子に涙を流した。
「ヨーシ、オレが立て直してやる!」などと大きな事を考えた事は既に前号で述べたが、何度述べても述べタラン。そこでまた雑感の要請を簡単に引き受けてしまったが、さて何を書こうかと思案。よし俺が歩いて来たそれからのカンボジアを書いてみよう。

私は1980年からバンコック空港工事に従事していた。その頃タイにはカンボジア難民が空港には勿論タイ国境沿いに溢れていた。BKKの日本人会館の片隅ではJVC,SVA等多くのNGOの方々が活動していた。皆さんがカンボジアの為にと物資や資金の支援をしていた。勿論我が家もこぞって参加した。NGOのキャンプでは飛行機の椅子や安全ベルト等があり直接手にとって経験できるようにしてあった。
また腰掛け式のトイレ、シャワー等も教育機材としてあった。
英語教育などの会話教室、洋式生活調度品の使い方など至れり尽くせりで教育していたのには感心した。確かに長年ジャングルを逃げ惑った難民には初めての事ばかりであっただろう。BKK空港の片隅にカンボジア航空の飛行機が置いてあったが、機内を覗くとびっくりした。椅子は全部取り外されて床にはベニヤ板が敷いてあった。大勢の難民を乗せるには椅子など必要なかったのだろう。現在女工さんが貨物トラックに満載されて通勤している姿を想像されると理解できるでしょう。恐らくトラックに満載されたと同様に、飛行機に満載されて来たのではないかと想像する。だからNGOの方が飛行機では椅子に座るものだと教えていたのではないだろうか。

1990年にプノンペン事務所を開設した。私はBKKと兼任。早速BKKから測量機械、製図機器を持ち込み、教育を始めた。入社試験をしたが大学出というのに三角関数が全く解らない。勿論英語は出来ない。これじゃーどうしようもないと思って仕方なくBKKから短期間の教育を目的とした測量、製図の指導者を雇い入れて教育を始めた。その内オーストラリア帰りのカンボジア人を英語教師として雇い入れて社内教育を始めた。
公共事業省、農業省などでも教えて欲しいと要請を受け出張教育をさせた。
測量の実地研修として公共事業省にプノンペン空港の全域を測量させて欲しいと要請した。この際空軍基地(1980年当時は空軍基地にもなっていた)を含めた全域を測量させて欲しいと要請したらスパイではないかと嫌疑を受けたこともあった。この測量実地教育の図面がその後の空港改修工事に大いに役立った事は言うまでも無い。

’93年に国道6A号線46kmの改修工事を請け負い、これが完成した後残された人材、機材をどうしようかと本社に相談したら「暫くじっとして居ろ」との指示。
国造りを目的にして来たのに「じっとして居ろとは何事ゾ!」
と反発。本社は勿論ローカルスタッフも行きたがらなかったコンポンチャムの灌漑ダム工事を設計施工で請け負った。やったことも無いプレストレスの電柱もカンボジアで初めて造った。現在は元弊社の従業員が他社で製造している。ちゃんと技術移転?が出来ている。
国道6号線のコンポントム州では6橋の架設工事(カンガルーのマークがついている橋)で、入札では最高価格であったが12ヶ月の工期を10ヶ月にすると交渉して値下げせずに受注した。これらの工事は会社からは悉く反対された案件であった。
このように「我が道を行く」が私の生き甲斐である。

全員で記念撮影 2009年7月12日 ラン園 2009年8月27日現在

現在は篠原勝弘前大使ご夫妻と日本人会の皆様の協力を得てプノンペンにジャングルを造り始めた。木々に囲まれた静かな小屋で瞑想するのが10年後の楽しみの一つである。
ではこの間の10年はどう過ごすのか?
じっと我慢?いやこの9月からモンドルキリで日本の桜や、梅、お茶の木が育たないか試験栽培して、育つようであればこの村を日本と同様に桜や梅林を眺めながらお茶を一服出来る高原にしたいと思っている。夢は果てしない。夢を共有したいと思う方は是非ご参加を。

 第9回 主婦のおしゃべり広場

「プノンペン救急隊」

いとう ゆり

「ピーポーピーポー」という懐かしい日本の救急車の音がプノンペンの雑踏を駆け抜けています。私の夫は個人で活動しているアメリカ人ですが、日本から寄付された中古救急車に関わっているので、ここで現況についてご紹介します。

夫は6年前、日本での仕事をやめて、今行かなければ一生後悔するとばかりにカンボジアに移住しました。これまで様々な活動を模索し、現在もいろいろやっています。セキュリティは専門分野の一つなので、3年前から夜のプノンペンを一人パトロールし、悲惨な交通事故の実態や警察の事故対応の基本的知識・資源の欠如などについてもよく知るようになり、現場で警察への指導や助言もしてきました。

昨年春、ある日本のNGOとの出会いをきっかけに、日本から中古の救急車がカンボジアに寄贈され、一部で現地スタッフのトレーニングがされていることを知り、日本人専門家とともにプノンペン全域での公的救急サービスを開始しました。まだ開始して1年しか経っていないため、人材育成その他まだまだ発展途上の救急隊ですが、「119」という緊急電話番号をコールセンターで一括して受け、救急隊のための無線を使って、一番事故現場に近い場所に待機している公立救急車を現場に急行させるシステムになっており、毎日実施されています。これは保健省と警察と軍が、夫曰く、「カンボジアの歴史上初めて」組織の壁を越えた協力をして成り立っているシステムだそうです。

以前から国立病院にあった救急車に加え、新たに日本から6台、中古の救急車が贈られ、運用されています。日本では10年ほど使われた中古救急車でも、丁寧に使われていたのでしょう、とてもきれいですし、設備の整った素晴らしいものです。

 

 

せっかくの高規格救急車を生かすべく、隊員へのトレーニングは急務です。医者や看護師でさえも救急現場でどのようにケガ人を移送したらいいか(例えば首の保護など)基本的な知識が欠如していることが多いそうです。従来は、救急車にケガ人を放り込むような形でとにかく病院に搬送するだけでした。両手両足を持ってそれっと放り込まれれば、かろうじて息をしている人など雑な搬送をされたがために命を落としてしまいます。そこで、救急救命の知識を救急隊員に持たせ、ケガ人を安全に、かつ救急車内で適切に処置しながら病院に運ぶ「EMS(EmergencyMedical Service)」にするために、トレーニングを積んでいます。

また、交通事故現場での問題を複雑にしているものに、私設救急車の存在があります。交通事故のケガ人を搬送し治療することで莫大な利益をあげている私立病院がいくつかあり、救急隊や警察の無線を(非合法ですが)聴いていて、事故の多い夜間は稼ぎ時とばかりに待機しています。応急処置をしようとしていたケガ人が夫の目の前で奪い取られ、連れ去られるということすら起きています。

ケガの程度が多少深刻でも、カンボジアの人は救急車に乗るとお金がかかると思っていたり、救急車は死人を運ぶものという悪いイメージがあって、無料の公立救急車であることを説明しても搬送を拒むケースもよくあります。事故直後は体がショック状態で痛みを感じにくいこともあるので、搬送を希望しない場合は、現場で救急隊員が応急処置だけして、あとで何かあったら病院に行った方がいいことなど説明することもあります。

今はまだプノンペン地域をカバーするだけですが、順を追って、地方へ行く国道沿いの事故にも対応できるようにし、カンボジア全体でEMSが行われるようにするのも目標のひとつです。

また、日本からは救急車だけでなく、中古の消防車も数台贈られています。現在の消防署は警察の管轄下にありますが、夫が居合わせた経験によると、火事の現場に行っても、お金を払ってくれなければ消火活動してくれないそうです。夫としては、日本からの消防車を生かすべく、消火活動を直ちに行うような消防隊活動、また、昨年プノンペンで痛ましい事故のあったコンテナー下敷き事故や水難事故など、様々な状況下での救命に対応できるようなレスキュー隊機能も将来的に追加していきたいと考えています。
 

   第17回 カンボジアの奇人・変人・日本人

「カンボジアの麻雀人口」

居酒屋 すずめ 店主  岡田 光司

 このコーナーも17回を数える事となり、タイトルに値する在留邦人の人数も底を尽いてきた感がある。いや、決してそんな筈は無い。元来、このコーナーは奇人や変人を紹介する為の物ではなく、この地で活躍する日本人がこの地の習慣・文化に溶け込んで行く中で体験した事や感じた事を記しているコーナーである。そう位置付けておかないと誰も執筆してくれなくなってしまうだろう。


 私はカンボジアと長く係わって来ている。内戦が終わり、カンボジアの復興事業が始まるのと同時に、様々な分野で活動される邦人の方々がカンボジアに駐在するようになって来た。
2000年以降は政情も安定し、治安も良くなり、家族連れでの滞在者も増えてきた。それに伴って、所謂、普通の在留日本人が比率を増し、強烈な個性を持った日本人が目立たなくなってきているが、一昔前の90年代のカンボジアはまだまだ治安上の不安も残り、その頃、商社や総合建設業の所長として赴任したサムライジャパンは、皆、百戦錬磨のつわもの揃いであった。M商事のS所長、○紅のM所長、M建設のK所長、I商事のA所長などなど、懐かしい。彼らは同じ土俵での勝負。魑魅魍魎の世界であった。
しかし、その面々が集い、和やかに(?)時を過ごす場が「非摩人」であった。私は彼らより若干年下で、業種が全く違ったが、一緒に遊んで貰う事があった。そのひとつが麻雀である。


 私は久しく遣っていなかったのだが、嫌いな方ではない。メンバーが足りない、と声が掛かれば出かけて行ったものである。と、言っても2卓目の人数が足りないと言う事で、当時の在留邦人の中には麻雀好きが10人位はいたと記憶している。
 思うに、私の世代が麻雀に慣れ親しんだ年代の分岐点のようである。私は小学生の頃に教わり、高校時代にはクラスに数人出来る者がいて、たまに卓を囲んだ。大学に入るとサークルの先輩の中にやはり麻雀好きがいて、年に2~3回は遣っただろうか。しかし私が卒業する頃には後輩で出来る者が殆どいなかったと記憶している。

 強い方が必ず勝ち、一対一で勝負する囲碁や将棋と違い、麻雀は4人、即ち敵3人の手の内を読みながら勝負するゲームであり、配られる牌が不明の為、ブリッジやポーカーの様な運の要素もある。私は運7割、技術3割のゲームであると思っている。そして、上がり役の種類も多く、その役の組み合わせによって得点が大きく変るため、より複雑になる。対戦相手3人の捨て牌と自分の手牌を見て敵の手の内を読む。自分の持ち点と相手の持ち点を考え、勝負に出るか降りるか決める。頭脳と勘のゲームである。だから大勝ちする時もあれば、当然、大負けする事もある。唯、一番厄介な問題は、一人でも欠けるとゲームが成立しない為、止め時が難しい。そうこうすると巷では陽が昇ってしまっている事もある。そして、一日を失ってしまった様な感覚に囚われる・・・・。


 確かにそこまで身体に無理して遣る事はないが、それくらい面白いゲームであるにも拘わらず、年々メンバーが減っていく。何故だろう?先ず、イメージが余り良くない。若い人にとっては、如何見てもオヤジの遊びに映る。ゲームなら他に幾らでもあるから、わざわざそんなゲームを覚える必要が無いのかも知れない。しかし麻雀は指先を動かし、頭を使うゲームなので、老後のボケ防止のゲームとして老人ホームでも取り入れられている。年を取ってからでは、視力と俊敏さを要求されるプレステは出来まい。


 現時点での在留邦人の中の愛好家は6人程である。その内私を含め、多分3人はここに骨を埋めるものと思われるが、他は長期駐在者であり、いずれ帰国する。もう一人いたのだが、昨年鬼籍に入ってしまった。寂しい限りである。長期滞在者の新たなメンバーを募らなければ、老人性痴呆症に罹るのではないか、との不安に怯えながら過ごさなければいけなくなってしまう。

 

 

 

 

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